ルワンダの学生たちが十字架に釘づけにした紙には何が書かれていたのでしょう?おそらく多くの学生たちは、家族を失った悲しみ、そのために引き起こされた困窮、加害者への怒りや憎しみ、といったことを書いていたはずです。
普段は何とか忘れようとして心の中に閉じ込めてはいるけれども、癒されることなく残っている一つ一つの傷に向き合い、それらを書きだしたのでした。そして、それらを他の誰よりも理解し、自分のこととして受容して下さるイエス・キリスト、私たち人間を愛し抜くがゆえに、十字架の上で絶望的な苦しみを受けられたイエス・キリストに差し出したのです。
この象徴的な行為により、参加者たちは、これまで長いこと背負い続けてきた重荷を下ろすという体験をしたのでした。
十字架に釘付けにされた紙片は、その後火鉢の上で燃やされて灰になりました。そこで灰になったものとは、参加者の心の中で傷となって残っていたものでした。できることなら思い出したくない、思い出せば再び自らを深く傷つけずにはおかない痛ましい記憶でした。
そして灰は、ユダヤ人にとってそうであるように、ルワンダ人にとっても悲しみと嘆きの象徴です。ルワンダ人はかつて、喪に服するときに頭から灰をかぶったと言います。愛する者との離別を哀しみ嘆く時に灰をかぶったのです。
その火鉢の上でくすぶっている灰を見つめながら、Mercy Ministries of Internationalのジョセフ・ニャムタレ牧師が、「神様は、この灰の山から美しいものを生み出してくださるのです」(イザヤ書61章3節)、と言われました。そして、このように続けられました。「私は、自分の身に起きた一つ一つの痛ましい出来事に何の意味があるのだろうと長いこと考えてきました。でも私は今、それらの経験をしてきたことにより、同じような苦しみを持つ人たちに共感することができるのです。そして、そのような自分の痛ましい経験を語るということを、神様が、他の人々の癒しのために用いておられることに感謝しています。」
ジョセフ牧師はフツですが、他の多くのフツの人たちのように、20年前のジェノサイドに加担することはありませんでした。しかし、現政権のルワンダ愛国戦線からの報復を恐れて逃避行をするフツの群衆と共に、家族を連れてコンゴ民主共和国(当時はザイール)に徒歩で向かわざるを得ませんでした。そして、コンゴへの途上、力尽きた自分の父親を道端に置き去りにするという経験をしたのでした。フツの群衆が大きな波のようにいっせいにコンゴに向かって動いている中で、そこに留まることは極めて困難だったのですが、父親を置き去りにしたという罪の意識に彼は苦しんできました。彼は、自分の父親が、他の多くの力尽きた人々と共に、ゴミだめにでも投げ込まれ、餌をもらえずに飢えた犬たちに食べられてしまっただろうと言います。ジョセフ牧師は、ゴミだめを見るたびに、置き去りにした父親のことを思い出すのです。
ジョセフ牧師をはじめ、今回「癒しと和解」のワークショップを進めてくれたMercy Ministries Internationalの職員及びボランティアの皆さんは、それぞれに思い出すだけでも腹わたがちぎれるような経験を生き延びた方々です。まさに「傷ついた癒し人」としてこの働きを続けておられるのです。